ラテン語やフランス語が聖職者や貴族の間で使われていた時代に、ジェフリー・チョーサ (1343頃-1400) は中英語で「カンタベリー物語」を物した。
カンタベリーの旧城内に置かれた (2016) <ジェフリー・チョーサの像 Statue of Geoffrey Chaucer >。
女性彫刻家 Sam Holland の作品で、寄付者が24の小話に因んで台座に刻まれている。
右手に持ったペーパーにはWhan that Aprill, with his shoures soote から始まる物語の序章が。
「シムティエール・デ・シヤン Cimetière des Chiens (1899)」は世界最初の動物霊園とされている。クリシー橋を渡った (クリシーの対岸) アニエール=シュル=セーヌ Asnières-sur-Seine のセーヌ河岸にある。
<バリー Barry (1800-1814) の記念碑 Monument funéraire de Barry le sauveteur >が入口を入って正面に置かれている。「40人の命を救ったが、41人目に殺された。」と刻まれているが、引退後ベルンで2年間の余生を送ったというのが定説か。
彫られているのは救助した少年を背に乗せてサン・ベルナール修道院 Hospice du Grand-Saint-Bernard に運んでゆく姿。背後はアルプスと修道院。生誕100周年の記念碑と思われる。
バリーはアルプス・スパニエル Épagneul des Alpes という種で、1880年にセントバーナード (サン・ベルナール) と呼称されることとなる。
パリでも1950年代と言えばマリリン・モンローらしい。彼女の作品はほとんどが1950年代。写真はピンナップガールとしてのモンロー。
フランシス・ロペス Francis Lopez 作曲のオペレッタ、「メキシコの歌手 Le Chanteur de Mexico (1951)」の歌詞 On a chanté les Parisiennes , Leurs petits nez et leurs chapeaux …. も出ている。
Henry Wernert (18..?-1970) の作詞で、ルイス・マリアーノ Luis Mariano が歌った。
勿論、メトロやバスの記事も出ている。
ラ・グランド・マドモワゼル La Grande Madomiselle と呼ばれたアンヌ・マリー・ルイーズ・ドルレアン Anne Marie Louise d’Orléans (1627-93) の所領だった。その後、ルイ14世の長男の所有、ルイ14世の寵姫ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールとの娘マリー・アンヌ・ド・ブルボン Marie Anne de Bourbon (1666-1739) の所有 (1714)を経て 、ルイ15世が王宮の一つとしてポンパドール夫人との密会等に使用したとされ、ルイ16世に至って政府に没収され、破壊された。
セーヌ川から直接入城できる形式の城だったが、今は RER の線路、駅舎敷き等になっていて面影はない。写真下は城内の現在 (メリー公園 Parc de la Mairie) の様子で建物は旧市庁舎 Ancienne Mairie 、右手が陸上からの正面入り口。写真上、一対の門館と堀が当時の遺構として残っている。
コルドリエ教会 Église des Cordeliers de Toulouse ( 現 Tour de l’Ancien Collège de Foix ) に取り付けられていた<ガーゴイル / 雨樋 Gargouille>がトゥールーズのオーギュスタン美術館で保存・ 展示されている。13~14世紀に制作されたもの。
実際とは異なり立てて展示してあるため、背後に回らないとガーゴイルと気付かないかも知れない。一様ではない種類の多さに驚く。確認されていた25個のうち15個が保存されている。
「シャネルの5番」等を発表し、ミシア・セール Misia Sert (1872-1950)を通じてサロン、社交界にデビューした頃だ。ミシア・セール はピアニストであり、多数の画家や詩人の助言者 Égérie であり、後援者、ミューズだったとされ、パリの女王 Reine de Paris と呼ばれていた。ココ・シャネル が唯一信頼した女性といわれている。
マルタの十字 Croix de Malte ou Croix de saint Jeanはキリスト教の騎士修道会である聖ヨハネ騎士団 (現マルタ騎士団) の象徴。
エルサレムに病院を兼ねた巡礼者宿泊所を設立したことを嚆矢とし、ホスピタル騎士団 Ordre desHospitaliers とも呼ばれた。
サン=ルイ病院 Hôpital Saint-Louis にマルタ騎士団の紋章 Armoiries de l’ordre souverain militaire hospitalier de Saint-Jean de Jérusalem, de Rhodes et de Malte が掲げられている。
冠の上、盾の下と背後の十字が「マルタの十字」或いは「聖ヨハネの十字」。盾の十字は赤地に白十字 (聖ヨハネ騎士団の旗) 。
不死/勝利を象徴するヤシの葉 palme を持つ有翼の<勝利の女神 La Victoire>に支えられて石塔上に立つ国鳥<ガリアの雄鶏 Coq gaulois>が勝利を宣言している。
ヴァンセンヌの隣町、サン=マンデ Saint-Mandé の市役所前広場に置かれた「戦没者慰霊碑 Monument aux Morts de la Guerre de 1914, 1918」(1923)。
地元の彫刻家 シャルル・ブルトン Charles Breton (1878-1968) が彫刻した。
アナトール・フランス河岸通りQuai Anatole France に面したリシャール・ボウエンズ・ファン・デル・ボイエン Richard Hermann Antoine Bouwens van der Boijen(1863-1939) によるアールヌーヴォー様式の建物 (1905) をコンコルド広場から見た。
背後の対の尖塔は「パリ初のネオゴシック建築」とされるサント=クロチルド教会で、フランツ・クリスティアン・ガウ Franz Christian Gau (1790-1853)の作品 (1857) 。
コンコルド広場の南東角に置かれたリヨン市(左)とマルセーユ市の寓意坐像も見えている。広場をフランスとみて中心のパリから両市は南東方向に当たる。
モンペリエにある<ホセ・マルティの胸像 Buste de José Marti Pérez (2009)>。キューバの彫刻家 Alberto Lescay Merencio (1950-) の作品で、キューバ大使館が寄贈したもの。
背後の建物は旧ウルスリン修道院 Couvent des Ursulines(1647-60) 。
また、「キューバ独立の父」ホセ・マルティ (1853-95) を顕彰した広場 Place José Marti (1955) がパリのパッシー墓地入口前にある。
ムフターフ通りに面して5本の道路が集まるロータリー、コントレスキャルプ広場 Place de la Contrescarpe のモニュメントは噴水のある小公園。20/08/2011.
時計の右上、ウシの浅浮彫がある建物は(旧)肉屋で、歴史的建造物に指定されている。
この辺りは<フィリップ・オウギュストの城壁 Enceinte de Philippe Auguste>があったところで、広場の付近は壁に沿う濠の外岸 Contrescarpe だったようだ。
工事中だった<ラ・セーヌ・ムジキャル La Seine Musicale >がオープンした(2017)。
日本人建築家 Shigeru Ban 坂 茂 (1957-) の作品。
セーヌ川の中洲の一つセガン島 Île Seguin のルノーの工場跡地。ブーローニュ= ビヤンクール Boulogne-Billancourt に属す。セーヴル橋手前から撮ったものだが、この一帯の再開発で風景は一変した。メトロ9号線 Pont de Sèvres から徒歩。
贖罪教会 Chapelle Expiatoire にパスキエ通りを隔てて向かい合う(旧)植民地投資銀行 Société financière française et coloniale(1920-49) のアール・デコ様式の建物。
当時の4地域の植民地をジョルジュ・サピーク Georges Saupique (1889-1961) が浅浮彫した動物で寓意した(1929)。ヒトコブラクダ、アフリカゾウ、ワニ、サメが下段に、上段にはワシ、ハゲタカ、オーム、トビウオ、クジャクが見える。他にトラ、ヘビ、アンティロープがある。
ソー城 Château de Sceaux の大緑地、ソー公園にあるオクトゴーヌ(8角形の池)に面して置かれている一対の鹿の彫像の一つ。<牡鹿と雌鹿と子鹿の休息 Cerf,biche et faon aurepos(1908)>、動物彫刻家ジョルジュ・ガルデの作品。
彼の出世作、<砂漠のドラマ Drame du désert(1891) >は紹介済み。
左に見える園路がアントニー Antony とソーの境界線で、上って行くと SNCF RER B 4線の Parc de Sceaux に至る。
ソー城 Château de Sceaux を含むソー公園 Parc de Sceaux は181 ha と広大。ル・ノートル André le Notre (1613-1700) によるフランス式庭園。
グラン・カナル/大運河沿いのポプラ並木は壮観。ビエーヴル川 La Bièvre 流域の低地で、奥の高台がソー城のレヴェル。人が二人見えるところまでがアントニー Antony その先がソー Sceaux のコミューンcommune (市町村)に属している。
SNCF RER B 4 線 : Parc de Sceaux もしくは La Croix-de-Berny で下車。或いはB 2 線 : Sceaux 。
ツール・ド・フランス Tour de France 2017 最終日23/07/2017、閉鎖されているチュイルリー公園とコンコルド広場を分かつゲートの隙間からシャンゼリゼ大通り、凱旋門、新凱旋門を覗いた。
刈り込まれたプラタナスの並木の間(両端に「マルリーの馬」)がシャンゼリゼ大通り。
「ルクソールのオベリスク」が中心軸なので、やや左からシャンゼリゼの左側車線を見ていることになる。
大型プロジェクターで実況中継中。
シャンゼリゼの左車線をガレット等のメーカー「St Michel」の宣伝車がコンコルド広場に向かっているところ。
シャンゼリゼ大通りに面したクレマンソー広場 Place Clemenceau からドゴール将軍の像とモンパルナスタワーとプティ・パレ。グラン・パレは右の案内板と樹木の奥。車列はアイゼンハワー将軍大通りとウィンストン・チャーチル大通り。 (電線は一時的なもの。) 24 PARIS は「パリオリンピック 2024」の招致ロゴ。バリケードは革命記念日 Le 14 Juillet 行事の名残り。 16/07/2017.
フォンテーヌブロー宮殿のルイ15世の食堂を飾る絵として製作された。ジャン=フランソワ・ド・トロワ Jean-François de Troy (1679-1752) による<狩猟場の昼食 Un déjeuner de chasse (1737)>。ロココ初期の作品。
狩りの合間の昼食を描いた歴史画だが、恐らく狩りそっちのけの雰囲気が当時の上流社交界を物語っているように見える。
サン=ルイ王妃:プロヴァンスのマルグリットMarguerite de Provence (1221-95) が未亡人となって(1270)建設したコーディエール修道院 Couvent des Cordelières に近接して1290年に建設し、同じく未亡人になっていた(1275)娘のカスティーリャ王国の王太子妃 Blanche de France (1253-1320)と住んでいた場所。シャルル6世治下、「Bal des ardents(1393)」と呼ばれる仮面舞踏会事件後取り壊された(1404)歴史を持つ。
終身白い喪服を身に着けていたので「白(衣)の女王の城」と呼ばれていたらしい。娘のブランシュ・ド・フランスに由来の説もあるようだ。また、シャトーを含め一帯を「女王ブランシュの小島 Îlot de la Reine Blanche」という。
国立ゴブラン織り工場群 Manufacture des Gobelins の一角。ゴブラン大通りからゴブラン通りに入って、ギュスターヴ・ジュフロワ通り Rue Gustave Geffroy に面す。
ヴェルサイユを通りパリ植物園の南側に沿ってセーヌ川に流入していたビエーヴル川 La Bièvre はこの裏側を通っていて(現 在は、Rue Berbier du Mets の地下に暗渠として存在している。) 、ゴブランの染色に利用されてきた(1443以降)。
パリの良き時代「ベル・エポック Belle Époque」に開催された5回目のパリ万博 (1900) に合わせて建設されたベルサイユからの終着駅<(旧)アンヴァリッド駅舎 Gare des Invalides >、アレクサンドル3世橋、プチ・パレ等。
エスプラナード・デ・アンヴァリッド Esplanade des Invalides には各国のパヴィリオンが並んだ。日本館は Avenue du Maréchal Gallieni の左側にあった。駅舎は現在エール・フランスのオルリー空港用のシティターミナルとして使用されている。 「パリオリンピック 2024」招致の旗が掲揚されているが、1900年は第2回オリンピックの年でもあり、パリで開催された。2024年は1924年以来100年目、3回目のパリ大会となる。
ここに花壇が置かれているのを見るのは初めての気がした・・ 11/07/2017.
GUCCI のロワイヤル通り店のウインドウ。中国人を意識したデザイン、色使いかと‥
ロワイヤル通りは嘗てパリの市内と市外を別けた通り。左に見える道がフォーブール・サン=トノレ通り、交差点手前がサントノーレ通り Rue Saint Honoré で旧パリ市内。
タクシーの車種はトヨタ、今夏、進出が目についた。日本国内で車種の切り替えを急がねばと思うのだが遅々として。 16/07/2017.
ロココの肖像画家 ジャン=マルク・ナティエ Jean-Marc Nattier (1685-1766) が描いた<ヘーベ Hébé に扮した Chaulnes 公爵夫人 La duchesse de Chaulnes, représentée en Hébé (1744)>。 左手にアンフォラ amphora 、右手に盃と雲に乗る鷲、頭と腕に薔薇、衣装はヘーベ風 en Hébé 。
Chaulnes 公爵夫人 Anne Josèphe Bonnier de la Mosson (1718 – 1787) はルイ15世の王妃マリー・レクザンスカ Marie Leszczynskaの女官だった。
彼女の夫は天文学者で物理学者、1744年は Chaulnes 公爵襲名の年で、<ヘラクレスに扮した彼の肖像画 Portrait du duc de Chaulnes (1714-1769), lieutenant-général de Picardie, représenté en Hercule(1746) >もルーブル美術館にある。
ヴィクトリアの滝直上流のザンベジ川 Zambezi River 。断続的に水煙が見えている。
滝の幅 Waterfall Width 1,708m、最大落下距離 The Deepest Point 109m (Main Falls 83m) と現地の案内にある。aha The David Livingstone Safari Lodge & Spa 付近から。
アニエール=シュル=セーヌの城 Château d’Asnières-sur-Seine はマルク・ルネ・ド・ヴォイエル Marc-René de Voyer d’Argenson(1722-1782) のシャトーとして建築された(1752)。
王室建築家サゴンのジャック・ハードアン=マンサール Jacques Hardouin-Mansart de Sagonne の作品。
この頃、マルク・ルネは軍馬の管理人 Directeur général des haras として戦争大臣だった父を助けイギリス馬を導入、そのモニュメントが右に置かれている。ヴァンセンヌ城の要塞司令官も務めていた。
ルイ15世の摂政だった「オルレアン公:フィリップ2世/ le Régent 」の愛人だったパラベール伯爵夫人 Comtesse de Parabère が頻繁に出入りしていた (1719-21) 邸宅跡地に建てられたと説明されている。
右後方の鐘楼はサント=ジュヌヴィエーヴ教会 Paroisse Sainte-Geneviève 。
メトロ13号線 Gabriel Péri 下車、バス 175 系統 Place Voltaire 下車で徒歩。
SNCF J 線あるいは L 線の Gare d’Asnières Sur Seine からバス 175 系統 Place Voltaire 下車。
ヘンリー2世と教会の自由を巡って対立し暗殺された (1170) カンタベリー大司教トーマス・ベケット Saint Thomas of Canterbury の霊廟が置かれていた (1220-1538) トリニティチャペル。ローソクの火がその位置を示す。
ヘンリー8世とクロムウェルによる宗教改革(イングランド国教会の成立(1534))の波の中で破壊された。王太子アーサーの結婚を記念してクライストチャーチを寄進したヘンリー7世の次男がヘンリー8世で、亡くなったアーサーの妃を娶った(1509)が離婚(1533)。
ヘンリー2世と教会の自由を巡って対立し暗殺された (1170) カンタベリー大司教トーマス・ベケット Saint Thomas of Canterbury。
グレートストア(川)上の建物 Eastbridge Hospital of St Thomas は列聖されて (1173) 以降訪れる巡礼者のための食事の提供や宿泊施設として建設された。中心街である Higt Street に面す。
クライストチャーチ前のバーゲート(通り)をセントメリー教会のほうに歩いて出くわす<カンタベリーシティウォールズ Canterbury city walls>。 塔の辺りが Roman Queningate (270-290) のあったところで、ローマ時代のウォールだという。その左手は西向きのカンタベリー大聖堂(597,1077)の東端に当たる。
カンタベリーのセントマーティン教会 St Martin’s Church, Canterbury は英語圏で最古の教会 。フランク王(パリ) カリベルト1世 Charibert I の娘でケント王妃/ケントのベルタ Bertha of Kent (565-601 頃)が古くからの教会を修復して Saint Martin of Tours に捧げた礼拝堂だった。
教皇グレゴリウス1世によりケント国に伝道派遣された「カンタベリーのアウグスティヌ」はこの教会を基地として隣に「聖オーガスティン修道院 St Augustine’s Abbey」を建設し初代カンタベリー大司教となった(597)。
ローマンタイルの壁やローマレンガの再利用:スポリア Spolia が残っていると説明にある。
イギリス南部、以前直接海に面していた名残を残すライの街は手作りの<ライ陶器 Rye Pottery>(1793)で有名。「チョーサーのカンタベリー物語」のフィギュアを始め「サセックス豚」や「イングリッシュフィギュア」、「動物シリーズ」等がある。
土産に買ったのはライキャッツ Rye Cats 。底面に絵付師のサインと「Rye Pottery Hand Made in England」の刻印がある。
大陸からロンドンへの嘗ての玄関口ヴィクトリア駅 London Victoria station 。
プラットホーム西側なので、イングランド南、南西部行きの Southern 鉄道等の案内が並び、左端にドーヴァー Dover Priory 行きの表示が見える。
乗車したのは15分間隔で出ている Southeastern 鉄道のカンタベリー行きで、画面より左、東寄りのホームから。Championnats du monde 2017 Londres が終わって10日目。
ロンドン発のオリエント急行「ベニス・シンプロン・オリエント・エクスプレス Venice Simplon-Orient-Express」はヴィクトリア駅2番ホームから出て、ユーロトンネル・ル・シャトル Eurotunnnel Le Shuttle を使ってバスでドーヴァー海峡を渡る。カレーで列車を乗り換えパリは東駅 Gare de l’Est を通る。
パリ市庁舎に貼られているパリ解放 Libération de Paris の60周年記念プレート。
第二機甲師団長のルクレール少将(将軍)はドローヌ隊長 Raymond Dronne にパリ市庁舎への突進を命じた。ドローヌ隊 La colonne Dronne はスペイン戦争でアフリカに逃れていたスペイン共和党員が主体だった。ポルト・ディタリーからパリに入り、オーステルリッツ橋でセーヌ川を渡ってパリ市役所に至った (24 août 1944) 。
道筋に同じメダルが貼られているようだ。
パリのサント = トリニテ大聖堂 Cathédrale de la Sainte-Trinité de Paris (2016) に見る正教会の十字 Croix orthodoxe 。ビザンチンの十字 Croix byzantine とも。
セーヌ川に架かるアルマ橋下流左岸沿いに建つナポレオン3世時代のアルマ宮殿 Palais de l’Alma (1864) 越しに。クロスのフットバーが右下がりに見えるので、左側が正面かと‥
パリの守護聖人 Patronne de Paris であるサント = ジュヌヴィエーヴ Sainte-Geneviève (423-512) 。フン族のパリ襲来(451)に際し、抵抗に悲観的な市民にパリ/ルテシアを放棄しないように呼び掛け、祈りによって迂回させることに成功した。コレラが流行しているというデマを流したという説もあるようだ。
ミシェル・ルイ・ヴィクトール・メルシエ Michel-Louis Victor Mercier
ヴェラスケス Diego Vélasquez (1599-1660) が描いた唯一のフランス人と言われるシュヴルーズ公爵夫人の肖像、<扇を持つ女性 The Lady with a Fan(c 1640)>。ナポレオン1世の弟の一人 Lucien Bonaparte が売りに出した (1801) 以前の記録がない。長らくスペイン女性と思われてきた。The Wallace Collection 所蔵。
シュヴルーズ公爵夫人 Marie de Rohan (1600-79) はルイ13世のお気に入りで、王妃 アンヌ・ドートリッシュ Anne d’Autriche (1601-1666) の友人であり相談相手だった。国外との陰謀事件の全てに関わったとされ、波乱の生涯を送った。
この絵は宰相リシュリューによりスペインに追放 (1637) されていた時に描かれたとみられている。もう少し若くてスペインの衣装を着た彼女の肖像画が Devonshire Collection にあることが有力な根拠らしい。
オランダの東インド会社への処女航海で遭難した「アムステルダム号」の例を挙げるまでもなく、英仏海峡は古来航海の難所だった。
ドーヴァー海峡は横断水泳 Cross Channel Swimming の難コースとしても有名。その記念碑 (1992)。Ray Smith (1959-) の作品<波頭 On the Crest of a Wave>。
二方向 (カレーとドーヴァー) へ波頭に向かって泳ぐ泳者。海の部分はこの地方特産の白いポートランド石で、その上の泳者には濃緑のスレートが使われている。
背景はドーヴァー城のあるホワイトクリフとドーヴァーのフェリー港 (カレー、ダンケルク) 。
写真に写るほどに疎らで大粒の俄雨に煙るエッフェル塔。チュイルリー公園のテラス・デュ・ジュ・ド・ポーム Terrasse du Jeu de Paume の一角から。 25/07/2017.
公園のテラスを取り巻くのは全てセイヨウ (ナツ) ボダイジュ Tilleul à grandes feuilles の並木で手前にその葉と実が写っている。
エッフェル塔の足元はマロニエの並木で、コンコルド広場の向こう側になる。
La Bonne Franquette (Rue Saint Rustique ) はベルエポックの時代(1879‐1914)にはロートレックやピサロ、セザンヌ、ルノワール、モネ等の画家たちの溜まり場だった。
ゴッホで名を残す画材商「タンギー爺さん」はモンマルトル丘すそのクローゼル通り Rue Clauzel から徒歩で通っていたという。 Galerie Butte Montmartre (Rue Norvins にも面す) は著名なポスターをお土産として手に入れるには便利。
ソル通りRue des Saules を La Bonne Franquette に沿って右折すれば左に「モンマルトル博物館 Musée de Montmartre」 。
クロアジー=シュル=セーヌ Croissy-sur-Seine の町を流れるセーヌ川右岸の<グルヌイィエルの堤 Berge de la Grenouillère>はサイクリング、ジョギング、散歩の人達がひっきりなしに行き交う。
左がセーヌ川 La Seine で右側の河岸には豪邸が連なる。上流の「印象派の島 Île des Impressionnistes 」から連なるセーヌ川の中洲との間の右派流も印象派の画家達の興味の対象だった。この位置でピエール=オーギュスト・ルノワール Pierre-Auguste Renoir (1841-1919) は<ラ・グルヌイィエル La Grenouillère (1869)>を描いた。
馬具工房から始まった(1837)エルメス HERMÈS が工房を遷した(1879) 24 Rue du Faubourg Saint-Honoré が現在のエルメス本店。
その屋上をボワシー・ダングラ通り Rue Boissy d’Anglas から見上げた。
ナポレオン帽を被り、Hのベルトを締めて、白馬にまたがった軍人が両手にスカーフの旗を掲げている。16/07/2017 時点。
この屋上の小庭園に因んだ「屋根の上の庭 Un Jardin sur le Toit 」という香水もある。
聖イノサン Saints-Innocents 教会の墓地の壁に作られた水飲み場:ニンフの泉 Fontaine des Nymphes が原型(1549)。その後墓地の移転と市場 Marché des Innocents の設置(1788)、その再編(1860)を経て現在型に至っている。イノサンの泉 Fontaine des Innocents 四方の隅にある合計8体のニンフの足元にパリの市章が見られる。
フランチェスカ・ダ・リミニ Francesca da Rimini (1255-85) はイタリアのラヴェンナ領主の娘。リミニ領主に嫁がされるがその弟パオロ Paolo Maratestaと恋に落ちたすえに夫に殺される。
ダンテ・アリギエーリ Dante Alighieri (1265-1321) は「神曲」地獄編でこの悲恋を取り上げたが、ロマン派の巨匠 アリー・シェファー Ary Scheffer (1795-1858) はこれを絵<Francesca da Rimini (1835)>にした。フランチェスカとパオロを陰で見るダンテとローマの詩人ヴァージル Virgile / ウェルギリウス 。
ルーヴル美術館所蔵の下の絵は1855年ヴァージョンで、<Les ombres de Francesca da Rimini et de Paolo Malatesta apparaissent à Dante et à Virgile (1855) >と名付けられている。日本では<パオロとフランチェスカ>というらしい。05/12/2010.